「映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」感想
2014年に公開された、しんちゃんの映画。公開二日目に見てきたので、感想を書きたい。映画に唯一の解釈はないが、私は映画を見ると他人がどう考えたか気になるタイプなので、では私自身も解釈を提供しようと考えこの記事を書く。
ネタバレも含まれるため、気にされる方は見ないことをお勧めしたい。
感想
クレヨンしんちゃんの映画は初見だが、十分に楽しむことができた。
「アナと雪の女王」を見た後だったので、作画や演出の完成度では見劣りを感じてしまったが、しかし、扱っているテーマが子供向けとは思えないくらい深い。「アナと雪の女王」の対象年齢は全年齢で、誰でも理解できるテーマを扱っているが、クレヨンしんちゃんは完全に大人向けだ。大人でも感動して泣いてしまった人も多いと思うし、「ロボとーちゃんの方が面白かった」と感じる人もいるだろう。
…というより、この映画は本当に面白いと思うのだ。あらゆる箇所に、気づかないような小さな小さな重要ポイントが仕込んであって、それを辿っていくのが本当に面白いのだ。もう一度映画のテーマを振り返ってみよう。
本映画の目的・テーマについて
父親の復権
父親の権威がこの映画のメインテーマだ。黒幕は父親の復権を狙い、野原ひろしをロボットにし、虐げられていた父親達を煽動した。
煽動されていた父親たちは、野原ひろしがロボットだったことに気づき去っていく。父親の権威失墜を原因として心の傷を負っていた黒幕は、野原家と、野原ひろしの記憶を持つロボットの前で敗れ去る。
これは何を意味しているのだろう。父親の復権は失敗するということが言いたいのか?
本当の主題
父親復権の成功・失敗を語る前に、エンディングを思い出す必要がある。エンディングではきゃりーぱみゅぱみゅの「ファミリーパーティ」をバックに、人間の野原ひろし、みさえ、しんちゃん、ひまわり、そしてシロのたわいない毎日の写真が流れていく。本当に幸せそうな写真だ。家族みんなが本当に幸せそうだ。本当に?
観た人なら分かると思うが、エンディングの風景は全て、本編では、「人間の野原ひろし」ではなく「ロボット野原ひろし」がそこに居た風景だった。家をせっせと片付け、シロの小屋を作り、夕食の寿司を握り、しんのすけと腕相撲をした「家族への愛を持つロボット野原ひろし」は、エンディングで丸々「人間の野原ひろし」に置き換わっていた。
人間の野原ひろしに負けたロボットの存在はそこから完全に消滅している。みさえからもしんのすけからも愛された「ロボット野原ひろし」はそこにいない。
このエンディングから分かることがある。父親の復権は、実はこの映画の本当の主題ではない。この映画は人間とロボットの野原ひろしとの戦いを通して、「そもそも家族における父親の本質とは何か」を問いかけてくる物語なのだ。
このエンディングは決してハッピーエンドなどではない。「ロボット父ちゃんが生き続けていたら?」「人間の野原ひろしが、最後にロボットの野原ひろしに負けていたら?」観客はそう思わずにはいられない。後味がいいわけではない。
しかし、ロボットの野原ひろしは負けなければならなかった。人間の野原ひろしだけが、エンディングに出演した。さて、二人のとーちゃんが確かに持っており、そして最後に勝敗を分けた、父親の本質とはなんなのだろう?
「判定者」みさえ
みさえはこの作品で徹底して、「父親にふさわしい存在は何か」についての判定者の役割を演じている。
みさえがロボットと人間の野原ひろしに同時に出会う場面がある。泣きながら「あなた!」と叫んでみさえが一直線に進んだその先は、完璧に家事をこなす「ロボット野原ひろし」ではなく、エステティックサロンの官能的なキャッチに捕まった「人間の野原ひろし」だった。ロボットの野原ひろしは、自分に何か足りないものがあることを認識する。
遡れば、シロの小屋を片付けてもアンテナを直しても、みさえはロボット野原ひろしを受け入れていなかった。みさえが物語の中でようやくロボット野原ひろしを受け入れるのは、しんのすけの命を救ったことを確信したときだ。*1
この構図は物語序盤とコントラストを描いている。物語の初めに、ぎっくり腰になったひろしにみさえは愚痴を言う。家の片付けをせず、シロの小屋を直さず、テレビアンテナの調整もできないひろしを罵倒する。そして現れたのは、シロの小屋を直しテレビアンテナを調整し夕食まで完璧に作ってしまうロボット野原ひろしだ。まさに望んだ夫が現れたのだ。しかし、みさえはその夫を選ばなかった。いや、元からみさえは、テレビのアンテナなどどうでもいいと思っていたのだ。判定者であるみさえは、父親の本質を知っている。
父親の本質と父親の復権
父親の本質とはなんだろうか。ロボット野原ひろしは、終盤で記憶を消されてしまう。生意気な口をきくしんのすけに対し、記憶をなくしたロボット野原ひろしは、ある拷問を加えようとする。みさえと人間の野原ひろしは、手足を縛られながら「そんなのは教育ではない」と主張する。初めは嫌がるしんのすけは、途中から自ら拷問を受け入れ、ロボットの野原ひろしに対し「拷問を受け入れるから、父ちゃんも記憶を取り戻せ」と言う。この言葉を聞き、そしてもう拷問の余地がなくなったロボットは、頭の中でマッドサイエンティストをぶちのめし、野原ひろしの記憶を蘇らせる。
そう、父親の本質が何かは、劇中で明確に描かれている。テレビのアンテナを直したり、ちゃぶ台をひっくり返したり、父親は偉いということを女房と子供に押し付けることではない。
黒幕が破れたのは、父親の威厳を復権しようとする行為が間違っていたからではない。目指すべき父親像、父親の本質を取り違えたからこそ破れたのだ。黒幕は妻と娘をその権力の元に置こうとした。野原ひろしは、家族への愛情を持ち、家族を守ろうとした。父親の役割を勘違いし、それを人々に押し付けようとしていたからこそ、黒幕は物語の中で断罪される必要があった。黒幕はしんのすけから「かっこ悪い」という評価を受け、そして、黒幕にとって喉から手が出るほど欲しかった「家族から愛される幸せな父親」の立場は、エンディングで野原ひろしこそが享受したのである。父親を復権するためには何が必要なのかは、この構図の中に現れている。
腕相撲
父親の本質に関連して、先ほど、「ロボット野原ひろしには何か足りないものがある」と言った。
もちろん人間の肉体は足りないが、ロボットの野原ひろしとはいえ、その記憶や家族への愛情は、人間の野原ひろしと同一のはずである。十分に尊重されなければならないはずだ。なぜロボット野原ひろしは、最後、機能を停止しなければならなかったのだろう。なぜエンディングでロボット野原ひろしは消え失せなければならなかったのだろう。足りないものとは、なんだろうか?
脚本家はその理由を示す伏線を用意している。腕相撲だ。
ここで一点補足だが、脚本家は「父親の権威は失墜するべきだ」などとは毛頭思っていない。男の信念は女には曲げられまいと、作中ではっきり主張している。先ほども言ったように父親が誰かを判定する者はみさえだった。しかし、二人の野原ひろしは、「誰が父親か」をみさえに選ばせようとはしない。女が自分をどう評価するかはどうでもいいのだ。父親が誰かを最終的に決めるのは、自分が父親だと証明するのは、男である野原ひろし自身だと分かっていたからだ。そしてその証明手段こそが腕相撲だった。
ラストシーンで、もう壊れそうなロボット野原ひろしと、人間の野原ひろしは、腕相撲で互角の勝負をする。脚本家は腕力で勝負がつくところを見せたかったわけではない。腕力以外の要素が勝敗を決する土俵を作らねばならなかった。だからロボットの野原ひろしはハンデを受け、腕力は互角に設定されている。二人は「勝ったほうが父親だ」と分かっている。力は同等だ。負けることはできない。しんのすけの声援を受け、どちらが負けてもおかしくない勝負をした。
そして、最後の最後、父親の本質を分つタイミングがやってきた。人間の野原ひろしが確かに感じ取り、自らの力としたあるものを、ロボット野原ひろしは、その頭の中ですぐに解釈することが出来なかった。判定の役割を持つ、みさえの声援である。
敗北の受け入れ
人間ならば大脳辺縁系に刻み込まれていたであろうその感情の濃度は、そのロボットでは薄かった。記憶と感情をコピーされたロボットは、その記憶と感情を0から作りだしたわけではない。あくまで人間の野原ひろしから複製されてきたものだ。
ロボットの野原ひろしに、父親の本質がないわけではなかった。しんのすけに説得され、記憶を呼び戻す程度には父親の本質を備えていた。しかしそのロボットは、元々は父親の本質を理解しない黒幕により作られた存在だった。そして、そのロボットの野原ひろしが向かい合っているのは、人間の野原ひろしだった。どれだけロボットが精巧に作られていようと、父親の中の父親、最高の濃度を持つ人間の野原ひろしが相手では分が悪い。みさえの声に反応して、何の迷いもなく瞬時に体の底から力を出せる人間の野原ひろしに、ロボットは負けを認めた。近いようで、人間の野原ひろしはあまりに遠かった。もうこれは負けても仕方がないと思った。だからこそ、だからこそ安心して、人間の野原ひろしに家族を託して、ロボットは目を閉じることが出来たのである。最後、薄れゆく意識の中でしんのすけに対して言った「どうだ、お前の父ちゃん強えだろ」は、最後にロボットがひろしに伝えた心からの尊敬の念であり、負けを自ら選択できるロボットの最後のプライドでもあった。
繰り返しだが、この最後の男の戦いは、腕力の勝負だったのではない。家族の愛情を自らの力に変えられるかどうかの勝負だったのだ。みさえの声援は、人間のひろしに向かって言ったものか、ロボットのひろしに向かって言ったものか、判断ができない台詞になっていた。判定者のみさえは中立を守っていた。ロボット野原ひろしも、みさえの声援を自分に対する声援だと解釈しても良かったのである。しかし、ロボットの野原ひろしにはそれが出来なかった。ロボットであるがゆえに、自分に対する声援なのかを一瞬疑ってしまった。その一瞬の代償として、野原ひろしの記憶を持つロボットは、機能を停止して、消え失せなければならなかったのだ。
この映画に感動し、余韻を感じるのは、負けたロボット野原ひろしが、最後まで父親を演じきったからだ。ロボットとして生まれたが、記憶は完全に野原ひろしだった。みさえが大好きで、しんのすけが大好きだった。しかし、家族が好きで好きで、しんのすけの命を救って、人間のひろしを腕力の腕相撲で倒してもまだ足りないものがあった。父親の本質を賭けた最後の腕相撲で、自分が父親であると確信できなかった。だから最後、父親としてのプライドを振り絞り、「本当の父親ではない」というその立場を自分から受け入れたのである。
つまり、逆説的だが、野原ひろしはロボットになってなお、本当に父親だったのだ。
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